連載コラム Vol.327

ナパ・ヴァレーの環境戦争

2018年4月16日号

Written by 立花 峰夫

ワイン消費者にはあまり知られていないものの、カリフォルニアで最も高名なワイン産地ナパ・ヴァレーでは、長年の間「環境戦争」とでも呼ぶべき争いが続いている。争っているのは、ワイナリーおよびブドウ栽培家といったワイン業界関係者と、環境保護団体・周辺住民だ。ナパではすでに、新しいブドウ畑を拓くことはほぼ不可能になっているのだが、この6月には、畑の開発をさらに厳しく規制する条例の住民投票が予定されており、関係者たちは張り詰めた日々を送っている。この環境戦争を扱った、ナパ・ヴァレー年代記の第三作『Napa at Last Light』(James Conaway著)も先日上梓された。現在のナパは、ワイナリー関係者にとってはある種の悲劇であるものの、「世界で最も環境に配慮したワイン産地」になっている。

もとより、ナパは環境保全に積極的な土地柄であった。ワイン製造業が爆発的なブームを迎える前の1968年、ナパ郡は全米で初めての農業用地保護法を制定しており、農地が都市郊外の住宅地に変わるのを食い止めてきている。モンテベロのご近所、「シリコン・ヴァレー」と呼ばれるIT産業のメッカの現況を見れば、この条例がナパのワイン・カントリーにもたらしたものがいかに大きいかがわかる。シリコン・ヴァレーも都市開発が進む前は、果樹とブドウ栽培が大変盛んな土地だったのだ。

ナパのワイン産業は1980年代から飛躍し、1990年代を迎える頃には、アメリカ中の人々があこがれる「エデンの園」となった。多数の富裕層がナパに流れ込み、金に糸目をつけずワインを造り始めたのだが、ナパには彼の地がのどかな田舎だった頃からの古い住民もいる。こうした人々にとって、増え続けるワイナリー、週末ごとの道路の大渋滞、ワイナリーへの訪問客が巻き起こす喧噪は、「近所迷惑」以外の何物でもない。また、「余所からやってきた成金たち」に対する地元の反感も当然あるから、ブドウ栽培、ワイン造りに対する周囲の目はだんだんと厳しくなっていった。

加えて、1980年代後半からは、「ヒルサイド」すなわち渓谷の東のヴァカ山脈、西のマヤカマス山脈の山肌に、ブドウ畑が本格的に切り開かれはじめた。これは、「ヴァレー・フロア」と呼ばれるナパ川両岸の沖積平野に、ブドウを植える余地がなくなったため。だが、山に生えていた木々が伐採されてブドウ畑になった結果、雨で流された大量の表土が飲料水用の貯水池や河川に流れ込み、川では固有種である鮭や鱒の生態系に悪影響が出始めた。

事態を重く見た周辺住民や環境団体は、河川の生態系汚染を食い止めるための条例制定に動きだし、「犯人」であるワイナリーを相手取り次々に訴訟を起こす。1990年代から2000年代初頭にかけてのナパは、訴訟合戦が繰り広げられた時代であった。このあたりの事情は、先に触れたJames Conawayによる年代記の第二作、『The Far Side of Eden』に詳しい。

周辺住民・環境団体の強い働きかけは、ナパ郡における各種の環境条例を生んだ。1990年のワイナリー定義条例(ワイナリーでの会議開催や結婚式を禁止するなど、ワイナリーがやってよいことを事細かに定めた条例)、1991年の斜面耕作条例(5%以上の傾斜の畑にブドウを新植、再植する際には郡の許可が必要で、30%以上の斜面開発の禁止した条例)、1991年の河川セットバック条例(河から畑までの間に最低限必要な距離を定めた条例)、2001年の景観保護条例(平地から見える尾根の開発や建造物設置を厳しく制限した条例)など、今では法令で相当にがんじがらめの状態だ。これら条例制定の結果として、ワイナリーの新築やブドウの新植は、昔よりはるかに難しくなった。

現在、ナパで新しくワイナリーを建てようと思ったら、建築業者だけでなく法律家に相談し、郡にも細かい確認を行いながら、計画が各種の規制に抵触しないか慎重に確認する必要がある。ブドウを植えるのはもっと大変だ。環境への影響について専門家による綿密な調査が必要であり、広めの畑だと調査・申請費用は数億円にもなる。ワイナリーがいざ建っても、受け入れ可能な訪問客の数、年間に開いてよいイヴェントの数までが細かく規制されていて、複雑極まりないある種カフカ的な迷宮がそこには待ち受けている。

ワイナリー側からすれば、ブドウが植わっているからこそナパは都市化の荒波を避けることができているのであり、環境団体や近隣住民の要求は厳しすぎるということになる。ナパ・ヴァレーは国立公園ではない。目下、ナパの基幹産業はブドウ栽培とワイン製造・販売であり、ならばブドウを植え、訪問客も受け入れねばならないというのがワイナリー側の論理だ。果てしなく続きそうなこの戦争、いったいいつ、どのような決着がつくのだろうか。

リッジの本拠地があるモンテベロの山も、厳しい環境規制が敷かれているという点では変わらない。2015年に新しくブドウの耕作が出来るようになった32エーカーの土地(下記コラム参照)についても、40年という気の遠くなるほど長い歳月の交渉を、ミッド・ペニンシュラ・リージョナル・オープン・スペース・ディストリクト(サンフランシスコ湾岸の緑地帯を管理する団体)と重ね続けた結果なのだ。環境への配慮は、21世紀カリフォルニアのブドウ栽培、ワイン生産にとって、必須の条件となっている。

http://www.ridgewine.jp/column/column_269.html
2013年6月以前のコラムはこちらから