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連載コラム Vol.10
ジンファンデルの起源を求めて
その1-リッジにおけるその歴史
  Written by ポール・ドレーパー  
 
  リッジの創設者たちは、1959年にモンテ・ベロの畑を含む土地を購入したあと、そこにあった古びたワイナリーを1962年に再生する。畑には、カベルネの樹が8エーカーとわずかばかりのシャルドネがあり、リッジは当初、自社畑産のカベルネで名を挙げた。創設者たちは、19世紀に開かれその後打ち捨てられていた畑の残りの部分にもカベルネを植え付けたのだが、こうした新植の樹からワインが出来るようになるまでの期間も、資金の借り入れをせずしのいでいく必要があった。そこで、既に成木になっているカベルネの畑を他に求めたのだが、当時はナパといえどもプティ・シラーという品種が一番幅を聞かせている時代、カベルネはどこを探してもほとんど見当たらなかった。
 モンテ・ベロの峰を下っていったところに、小さなジンファンデルの畑が二つあった。19世紀に植えつけられ、その後荒れ放題になっていたものである。創設者の一人であるデイヴ・ベニオンが、そのうちの一つを元の状態に戻し、1964年にリッジで初めてのジンファンデルが造られた。そこからできたワインは驚くほど複雑かつ強烈な風味を有していたのだが、同じぐらい古く、探し求めるに足るジンファンデルの畑は、まだまだ北カリフォルニア中に残されていたのである。
 ボルドーがカベルネで、ブルゴーニュがピノ・ノワールとシャルドネで、ローヌ北部がシラーでその名声を築いたのと同じように、カリフォルニアにはジンファンデルがあり、この品種の模範的な姿がどんなものかを示してきた。今日のカリフォルニアは、他のワイン生産地区同様、ヨーロッパの偉大なワインに闘いを挑むところまできている。だが先に挙げたヨーロッパの有名品種では、我々はまだ挑戦者に過ぎず、ジンファンデルと同程度の名声を築くところまでは至っていないのだ。
 リッジでは、その設立当初からジンファンデルの起源を調査してきた。この品種がアメリカ東海岸にもたらされたのは1820年代で、ウィーン近郊のクロスターノイブルグにある王立植物園から来たことがまず分かる。当時、この植物園にはオーストリア=ハンガリー帝国のあらゆる場所から植物が集まってきていたのである(後に続く話の参考として言うと、クロアチアはこの帝国に属していた)。だがここまでで、我々の研究は行き詰まってしまう。ジンファンデルにそっくりなプリミティーヴォという品種を、UCバークリーのゴヒーン博士が南イタリアで発見しており、UCデイヴィスのオルモ博士がさらに調査をしたところ、ジンファンデルと同一種だということが分かる。だがオルモ博士の研究員は、イタリアの年配の栽培家たちが、プリミティーヴォのことを「外来品種」と言っていることを報告していた。
 1998年には、遺伝学者のキャロル・メレディス博士(UCデイヴィス)が、クロアチアのプラヴァッツ・マリという品種を、ジンファンデルと同一種だとする主張について調査を行った。ザグレブ大学の科学者二人との共同研究の末に、彼女はその仮説を退けるが、DNA鑑定の結果、二品種が持つ遺伝子の半分が同一であることが確認された。明らかに、プラヴァッツ・マリはジンファンデルと親戚関係にあるのだ。2001年の晩秋、クロアチアの研究者たちは、ツールイェナック・カシュテンランスキーという品種名を持つ1本のブドウ樹を見つけ、それがジンファンデルと同一種であることを証明した。2002年秋の時点で、一つのブドウ畑で見つかった合計8本の樹が同じものだと確認されており、その他にも有力な候補が数本、現在調査を受けているという。
 2002年6月には、この二人のクロアチア人研究者を尋ねてカリフォルニアから使節団が派遣されたが、リッジは他のワイナリーとともに援助をしている。我々はまた、クロアチアにおいてこの研究が継続されるための資金調達も行った。栽培責任者である当社副社長のデヴィッド・ゲイツは、2003年の夏に彼らの元を尋ねている。

「その2-クロアチア滞在記」に続く
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 ポール・ドレーパー
 リッジ・ヴィンヤーズCEO、最高醸造責任者