連載コラム Vol.321

ジョン・オルニーとの会話 その3

2018年1月15日号

Written by 立花 峰夫

以下は、リッジの地方販売部長であるダン・バックラーが行った、リットン・スプリングス・ワイナリーの醸造責任者ジョン・オルニーへのインタヴューである(全3回中の第3回)。

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自分でも意識している、ムカつくことっていうのはいくつかあるね。ルールを守らない連中がキライだ。たとえば、追い越し車線をずっと走っている奴とか。追い越し車線っていうのは、追い越しをするときだけ走るところなんだよ。ヨーロッパではみんなそのルールを守っていて、追い越し車線にずっと留まったりはしない。自分の右側から追い抜かれることがなければ、そっちに注意をする必要もないから、ずっと安全なんだ。

その問いは、想像されるよりもずっと複雑な問題だね。自由っていうのはその基本的な意味において、自分のしたいことを、誰にとがめられることなく何でもできるということだけれど、一方で自分が何をしようとしているのか、わかっていなくちゃならない。世界中で、自由を求めるデモがなされているんだけれど、それはちょっと興味深いね。よってたかって、我々の自由を奪おうとしているなんて言われるけれど、自分はそんなふうには思わない。100人のアメリカ人が、100人のイラン人と一緒になったら、ちゃんとうまくやるだろうという確信があるもの。みんな同じ人間なんだ。

大雑把にいって、自分が一番敬意を払うワインというのは純粋さがあるものさ。ロゼで30ドル払っていいと思うのは、ドメーヌ・タンピエのものだけだな。夏には、ファランギーナやピクプール・ピネのワインなんかを飲むんだけれど、細身でクリーンな味わいが魅力的だと思うからさ。冬の時期には、シノン、ジンファンデル、ファラドーリのテロルデゴあたりがいいな。自分にとって、原料品種の味わいがしないワインというのが、テロワールを表していることの条件のひとつなんだ。ラ・ターシュの味わいがするワインというのは、ラ・ターシュの味わいなのであって、ピノ・ノワールの味わいではないんだ。

自分はまだ子供だったとはいえ、叔父のリチャード・オルニーこそ、わが生涯に最も影響を与えてくれた人物だよ。10歳頃にフランスに行ったとき、はじめて叔父と一緒に過ごしたし、14歳でもう一度訪問した。オーストリアにあった母の家を一緒に訪れたあと、南へ向かってフランスに入り、叔父を訪ねたのさ。14歳からあとも、ずっと再訪を続けたんだ。

最近スイスに行って、ジンファンデルについての30分ほどのプレゼンテーションをフランス語でやったよ。参加者は、ヨーロッパ中から集まった腕利きの醸造家約100名さ。6ヶ月もかけて練習したから、ほとんど話す内容を暗記していた。ここ最近で、一番ドキドキしたのはそのときのことだな。

子供が幸せかどうかは気になるね。いまはみんなティーンエイジャーになっているから、外の世界に出て、自立しはじめている。そうじゃなきゃいけないからね。親ならいつだって、子供のことは気にかかるものさ。自分の家にあるブドウ畑のことも気になるな。自分が死ぬまでに、スタンレー・カップ(プロ・アイスホッケー・リーグのプレーオフ)で、ブルースが優勝してくれるかどうかも気になる。50年もやっていて、まだ一度も優勝していないんだから。

ワイン造りを志す人に対しては、アンリ・ジャイエが自分に教えてくれたものを、わけてあげたいと思う。アンリと一緒に試飲しているとき、こんなふうに言われたんだ。「ワインの色を鑑定するときは、自分のグラスじゃなく、一緒に飲んでいる人のグラスをみるようにしたらいい」。グラスを上から見下ろす形になると、判断するのが難しくなるからさ。ほかに彼が教えてくれたのは、次のことだ。「自分が飲みたいと思うワインを造ることだ。そして、自分を支持してくれる人がたくさんいるはずだと、信じることだな」

絶対にやりたくないこともたくさんある。例えば、政治家になること。肛門科の医者にもなりたくないな。

もしワイン造りを止めることになったら、肉屋になるだろう。なんでなりたいのかはよくわからないんだけど。塩漬け肉が好きでね、作るのも好きなんだ。漁船のつく波止場で働くのもいいかな。新鮮な魚を手に入れる一番の方法は、それが届いたときにその場にいることだからね。18歳だった頃の自分にアドバイスをするとしたら、ゆっくりやること、辛抱づよく学ぶこと、つべこべ言うより人の話をよく聞くこと、この三つかな。

自分の人生は、ほんとうに幸せなものだと思うね。

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