連載コラム Vol.319

ジョン・オルニーとの会話 その1

2017年12月15日号

Written by 立花 峰夫

以下は、リッジの地方販売部長であるダン・バックラーが行った、リットン・スプリングス・ワイナリーの醸造責任者ジョン・オルニーへのインタヴューである(全3回中の第1回)。

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この日のドライ・クリークはほこりっぽく、気温は29℃。ジョン・オルニーの執務室もさほど涼しくはなかった。リットン・スプリングス・ワイナリーは稲藁のブロックと土の漆喰で建てられていて、断熱性には極めて優れるのだが、電力による空調がないため、時にジョンの執務室は少し暑くなる。スポーティで軽やかなチノパンと、コーンフラワー・ブルーのキャンプ用シャツが、目の色とコントラストをなしているジョンは、室温の高さを気にするふうでもなく、机に向かってラベルの文章を書いていた。ほどなく始まる、2016年ヴィンテージの瓶詰めに備えてのことである。気楽かつ楽し気なジョンは、暑さに身を任せ、母なる自然のなすがままに、収穫直前の数週間を過ごしていた。ジョンのきちんとしたプロフィール紹介については こちら をご覧いただきたいが、ここではリットン・スプリングスを造る男の別の側面、いわゆる公式発表には含まれないところを見ていただきたい。私が最近投げかけた一連の質問に対する、ジョンの答えを以下にまとめている。

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ワインにのめり込みだした最初の頃、フランス南部で叔父と一緒に長く過ごしていて、ドメーヌ・タンピエのワインをやまほど飲んだもんだよ。ドメーヌでの昼食は正午に、バンドールのロゼを食前酒に始まって、いろんなヴィンテージのほかのワインがいくつか続く。たいてい、子羊の脚と一緒にワインが出された。食事は午後4時ぐらいまで続き、その頃になると食後酒としてマール(グラッパに似た蒸留酒)を飲んでいた。叔父の家に戻るときにはいつも、タンピエのワインが1箱、後部座席に乗っていたよ。

父がいつも言っていたんだ。「先を読め。ただ、読みすぎるな」。この言葉は、心配の水準をちょうどよく保つのに役立ってくれている。

どこに住んでもいいよと言われたら、イタリアのアマルフィ海岸が心に浮かぶね。そうは言っても、ソノマに暮らすのが大好きではあるんだ。外国への旅から帰ってきたとき、サンフランシスコ空港から車に乗って、ペタルマ・ギャップのなだらかな丘の連なりを見るたびに、いつも「悪くない」って思うのさ。

ワイン造りの過程では、常にワインをテイスティングすべきだというポール・ドレーパーの鉄則を、何よりも大事にしている。ポールが下す判断はすべて味に基づくもので、レシピに沿ったものではない。ブドウが破砕された瞬間から味見をし、発酵中にワインが形になっていくのを見定め続ければ、風味や個性についてほんとうに多くのことがわかる。ポールは、選別というプロセスをリッジにもたらした。ブレンドしてもワイン全体を向上させない標準以下のロットについて、ためらわずに格下げしようという考え方だ。

仕事が終わって、夕食を準備しようとニンニクをつぶし、玉ねぎを刻み始めるときにはたいてい、好みの音楽をかけているよ。よく聴いているのは、アメリカ人シンガーソングライターの曲、クラッシック・ギター、そしてトム・ウェイツに分かれるな。トム・ウェイツは、彼だけでひとつのカテゴリーになる。

子供の時分は、プロのホッケー選手になるのが夢だった。なれたかどうかはともかく、サン・ルイで自分が育った頃には、プロを目指せるようなトレーニングができる場所が町になかったんだ。誰かの父親がコーチ代わりで、ただプレイをしていたんだ。でもほかに、大人になってからなりたいものはなかったな。

タイとベトナムに行ってみたいんだけれど、それは食べ物と文化に興味があるからさ。ブラジルやアルゼンチンにも行きたくて、そもそも南アメリカには渡ったことがないから、手始めにいいと思うんだよ。

プレスのすぐあと、マストが辛口になろうとするときが、ワインがまさに生まれようとする瞬間であって、もはやブドウ果汁じゃないんだ。自分にとって、ワイン造りで一番興奮するのがここさ。

(その2に続く)

2013年6月以前のコラムはこちらから