連載コラム Vol.306

エリック・ボーハーとの会話 その1

2017年6月1日号

Written by 立花 峰夫

以下は、リッジの地方販売部長であるダン・バックラーが行った、モンテベロ・ワイナリーの醸造責任者エリック・ボーハーへのインタヴューである(全2回中の第1回)。

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雨となった火曜日の午後、エリック・ボーハーはモンテベロ・ワイナリーのラボで、忙しく立ち働いていた。1994年の夏、化学分析担当者としてリッジで仕事を始めたのが、この場所なのだ。この日は、パソ・ロブレス・ジンファンデル2015と、ガイザーヴィル2015のサンプルを扱っていた。4月1日に発売を控え、これが最後の品質チェックとなる。ハイテク機器に囲まれた実用優先の場所で、エリックは完全にリラックスしながら、試験管を洗い、顕微鏡用のスライドにワインの滴を垂らしていく。冷静で集中力に富む男だが、服装はジーンズの上に腕まくりした格子柄のシャツというカジュアルな姿。専門性の高い仕事を慎重に進めながらも、笑みを絶やさない。エリックの公式なプロフィールはこちらでご覧いただくことができるが、この記事ではモンテベロを造る男の異なる側面を、よくあるプレス・リリースとは違う形でお伝えしたい。以下が、エリックによる回答である。

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初めて飲んだワインは、育った町であるコラリトスのものだったよ。21歳になったときから、ワインを集め始めた。地元のサンタ・クルーズ山脈で造られるワインを両親が飲んでいたから、同じようにしたんだ。

両親や叔父、祖父母からは実にいろんなことを教えてもらった。レイ叔父さんには次のことを叩き込まれた。「頭を鍛えろ。オレみたいな肉体労働者にはなるな。大学で学位を取れ」。レイ叔父さんは建設業者としてとても成功した人で、体よりも頭を使って出世するようにと励ましてくれたんだ。

どこか別の場所で暮らすとしたらって? たぶんオーストラリアのクレア・ヴァレーかアデレード・ヒルズだろうか。いい人が多いし、都会すぎないし、インド洋につながる美しいビーチが近くにあるし、素晴らしく美味しいワインもあるからね。

ポール・ドレーパーは常にバランスを求め、陰陽の哲学にのっとりながら、調和の取れた全体としてのワインを造ろうとしていた。1+1=2という単純な世界じゃないんだ。それぞれの品種が単独でも偉大なワインになるようにした上で、そこから相乗効果を築きあげていき、個々のパーツを足したものを上回るワインに仕上げるのさ。醸造家の仕事とは、畑の個性をブドウに、そしてボトルへと伝えていくことに責任をもつことなんだ。畑の特徴を飲み手に伝えるための生成変化のプロセスで、ポールは毎年のハーヴェストでそこを目指していた。ワインそのものだけでじゃなく、市場におけるそのワインのイメージも大切で、最終的な飲み手に語って聞かせなければならない。ポールはその点にも大いに秀でていて、ワインについて話すと実にすばらしかった。

太平洋沿岸にある自宅からモンテベロまでの長い通勤路では、あるいはソノマまでブドウ畑を見にいくときには、気分にあった音楽をいろいろ聞くようにしている。働きにいくときはカントリーを、忙しかった一日が終わり、リラックスした気持ちになりたい夕刻にはクラシックを。ヒップ・ホップも聞くし、子供が聞いているものならなんだって試しているな。

誰でも好きな人と夕食をとっていいと言われたら、オセア・ペローネ先生(1880〜1890年代に、モンテベロ・ワイナリーを創設した人物)がいいね。この山のてっぺんにまで登ってきて、何もないところにこれほど大きな畑を拓いたのはどうしてだったのかって、聞いてみたいじゃないか。どんな品種を植えていたのか。ブドウ以外の作物は何を育てていたのか。ワイン造りの哲学はどんなものだったか。もっと大きなセラーを建てる計画はあったのか。禁酒法の間、アルコール・タバコ・火器局の連邦捜査官に見つからないよう、隠していた在庫はなかったのか。わからないことが多すぎるからね。

長じるにつれて、医者でも科学者でも、何かの分野で博士になりたいと思うようになった。結局、カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校を卒業してすぐ、歯科学校へ進むための入校テストを受けたんだけれど、ちょうどその頃モンテベロで、化学分析担当者として働き始めたんだ。

(その2に続く)

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