連載コラム Vol.303

スティーヴン・スパリュアがデカンターのマン・オブ・ザ・イヤーに

2017年4月14日号

Written by 立花 峰夫

「パリスの審判」の仕掛人にして国際的なワイン・コンサルタント、近年はイギリス南部でスパークリング・ワインの生産も行っているスティーヴン・スパリュアが、英国『デカンター』誌のマン・オブ・ザ・イヤーをこのたび受賞した。1984年に創設されたこの賞は、人物に贈られるものとしてはワイン業界で最も権威があるもの。同じ賞を、ポール・ドレーパーは2000年に受賞している(アメリカ人としては、ロバート・モンダヴィ、アンドレ・チェリチェフに続いての3人目で、その後はアメリカからの受賞者は出ていない)。スパリュアがワイン業界にもたらしてきた貢献を考えると、2017年の受賞は遅すぎるぐらいだが、同雑誌の編集顧問を長年務めてきているため、「身内に賞を与えるのは・・・・・・」という遠慮があったのではないかと想像される。

ポール・ドレーパーによれば、歴史的テイスティングに出されたモンテベロのヴィンテージを選んだのは、スパリュア自身ではなく、スパリュアと一緒に働いていたアシスタントのアメリカ人女性、パトリシア・ギャラガーだという。ドレーパーとしては、より骨格があり長期熟成能力のある1970を推したそうなのだが、1975年にリッジを訪れたギャラガーは、当時の現行ヴィンテージであった1971を選んだ。よりエレガントで、若いうちから飲みやすかったこのワインが、まさかそれから40年以上も美しく熟成するとは、ドレーパー自身も考えていなかったらしい。しかし、最初の対決から30年後の2006年、ロンドンとナパで同時開催された30周年記念テイスティングにおいて、この1971が2位以下に圧倒的大差をつけて勝利を収めることになる。1971のモンテベロ、現時点における世界中の市中在庫は限りなくゼロに近いと思われるが、2016年に筆者が現地で試飲した際にも、まだ10年は素晴らしい姿を見せ続けそうなバランスであった。

スパリュア自身がリッジを訪れたのは、1976年の3月、「パリスの審判」の2カ月前である。はじめてのカリフォルニアで、愛妻ベラを伴っての旅だった。ジョージ・テイバーによる正史と呼ぶべき書籍『パリスの審判』によれば、スパリュアはリッジとシャローンの質の高さに驚き、2ヵ月後のテイスティングにおいても、カリフォルニア勢の中でこの両ワイナリーが1位になるのではと予想していたらしい。とはいえ、カリフォルニアがまさかフランスに勝つことになるとは、スパリュアといえどまったく予測も希望もしていなかった。

なお、1976年時点でのモンテベロ1971の小売価格は3.5ドル。当時のリッジは、ボルドー産有名シャトーのワインを樽で輸入して瓶詰めし、米国内で販売するというサイドビジネスも手掛けていたのだが、ランシュ・バージュ1961の従業員向け価格が、1976年頃に3.75ドルだったという。だから、モンテベロ1971の3.5ドルという価格も、当時としては野心的な値付けだったらしい。古きよき時代である(1976年からの40年間で、米国の消費者物価は4倍にしかなっていない)。

スティーヴン・スパリュアは今年9月に来日し、1972年にパリで創設したワイン学校「アカデミー・デュ・ヴァン」の東京校で、自らのワイン人生を振り返るセミナーを開く予定だという。
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