連載コラム Vol.240

ポール・ドレーパー来日セミナー2014 その2

2014年8月18日号

Translated by 立花 峰夫

2014年3月、リッジのCEO兼最高醸造責任者であるポール・ドレーパーが7年ぶりの来日を果たした。以下は、3月26日に東京青山のアカデミー・デュ・ヴァンで行なわれた講演の記録である。(全5回中の第2回)

<醸造責任者への着任>
さきほど、二冊の本が私のワイン造りの師であったとお話しましたが、他にも師といえるものがありまして、それは優れたワインを当時たくさん飲んだことです。その頃、高級ワインはとても値段が安く、大学を出たばかりの私のささやかな給料でも、世界で最も優れたワインを買うことができました。実際にいくらぐらいだったかをお伝えすると、皆様ショックを受けられるでしょうから敢えて申し上げません。醸造の教科書を書いたカリフォルニアの人物の息子が、ラ・クエスタの畑で造ったワインを飲むという素晴らしい機会にも恵まれました。禁酒法撤廃のすぐあと、1930年代後半のワインです。

禁酒法によって1920年にワイン造りが禁じられてしまいましたので、その時点ですべての醸造家は、引退するか職業を変えるかする必要がありました。そのため、1933年に禁酒法が撤廃されたときには、ワインの造り方を知っている人が、ほとんど誰もいなくなっていたのです。ワイン造りの知識をもっていたのは、禁酒法施行時にまだ歳が若かったため、同法撤廃後にまだ仕事ができ、再びワイナリーを開くことができた造り手だけでした。そうした造り手たちは、1933年の禁酒法撤廃後に、禁酒法以前の伝統的な技術を用いてワインを仕込みました。現代的な醸造法は、その頃まだ開発されていなかったのです。実際、禁酒法撤廃直後のカリフォルニアでは、大学がその時点から、再びワイン造りの技術を「発明」しようとしていました。数千年のあいだワインが造られてきた「自然なプロセス」ではなく、「化学的プロセス」としてのワイン造りを、再発明するという意味です。

話は戻りますが、1933年から1939年のあいだに、本当に驚くほど複雑なワインが、昔ながらの技術を使って造られていました。自然なプロセスを、人が導いてやるというアプローチですね。私は、ラ・クエスタのワイン以外に、イングルヌック Inglenookも飲みました。こちらも、カリフォルニアで最も有名だった生産者のひとりで、規模はラ・クエスタよりかなり大きかったです。こうしたカリフォルニアワインは、私が当時飲んだ最高のヴィンテージのボルドーワインと肩を並べていました。28年、29年の一級シャトーなどです。一級シャトーについていえば、45〜49年も、昔ながらの伝統的な手法で造られていましたから、この年代のボルドーワインも比較の対象になりましょう。ところが、1940年代、50年代、60年代初めのカリフォルニアで造られたワインを、1960年代半ばに私が飲んだ際には、どれひとつとして1930年代後半の品質に達しているものがなかったのです。いったいこれはどうしたわけか、と私は考えました。40〜60年代のワインには、商業用培養酵母、培養乳酸菌、無菌濾過、酵素などの添加物といった新開発の技術が、使われ始めていたのが原因でした。

さて、私がリッジの創設者たちから仕事のオファーをもらったとき、初の商業ヴィンテージである62年のワイン、それから64年も飲ませてもらいました。試飲したのが68年ですからまだまだ若いワインでしたが、それでも私の飲んできた40年代から60年代前半までに造られたカリフォルニアワインの中で、一番の出来栄えでした。私は、30年代後半の優れたカリフォルニアワインや、ボルドーの偉大なヴィンテージのワインとも(頭の中で)比べてみました。そしてこうひとりごちたのです。「この人々(創設者たち)は、ワイン造りについては何も知らないから、自然なプロセスが起きるのに任せたのだ。邪魔をしなかったのだ。だが、彼らの仕込んだワインから判断するに、余計なことをしなかったのがよかっただけでなく、その畑がボルドー品種を植えるのに最高の場所なのだろう」。創設者たちとその家族がとても好きにもなりましたし、モンテベロのテロワール(気候、土壌)が、卓越したワインを生むことができると感じましたので、リッジに加わる決意をしたのです。
リッジでの私の初ヴィンテージは69年です。この仕事のオファーを受けられた一番の理由は、私が伝統的な技術でワインを造っていたからでした。(チリでの)経験がありましたし、本でも学んでいましたから、伝統的な技術がいかにワインに影響を及ぼすか深く理解していたのです。リッジは今でも、19世紀に使われていたのと同じ技術を使っていますし、それはリッジの創設時からずっと変わることがありません。ただし、今日の私たちが使えて、19世紀にはまだ使えなかったものとして、驚異的に優れた器具類があります。とても優しくブドウやワインに作用し、洗浄も簡単な器具類で、以前の鋼と鉄に変わってステンレスが使われるようになっています。しかし、技術そのものは19世紀と変わっていません。

<アメリカンオークへのこだわり>
さて、リッジのワインを初めて試飲したときにもうひとつ感じたのは、創設者たちがボルドーのワインをほとんど飲んだことがないのではないか、ということです。それでも、62年、64年のワインは偉大なボルドーワインを思わせました。なので、もしリッジでフレンチオークを使ってワインを熟成させたら、ボルドーの模造品になってしまうだろうと私は考えました。ブドウ品種がボルドーのものでしたし、モンテベロの土壌と気候の下で育ったものは、ブドウの段階ですでにボルドーとの共通点があったのです。それで私は、オーク樽での熟成について研究しはじめました。そうこうするうちに、メドック地区にシャトーを保有するボルドーの友人が、面白いことを教えてくれたのです。このシャトーは、リッジに加わる前の年、68年に訪問したことがありました。その年の収穫時期をボルドーで過ごしていたのです。ひどいヴィンテージでしたが、私には大変興味深かったですね。

そのボルドーの友人は以前に、ボルドー大学でオーク樽熟成についての博士論文を執筆していました。友人は私に、「これまでボルドー地方で行なわれたオーク樽熟成に関する実験の中で、最も有意義なものについての(論文の)コピーを持っている」と教えてくれたのです。1860年代、1870年代にも広範な実験が行なわれていましたが、最も本格的な実験が行なわれたのは、偉大なヴィンテージである1900年産のワインについてでした。友人によれば、ボルドー大学がこの年に行なった実験とは、5大シャトーの全銘柄を、6つの地方産のオーク樽にそれぞれ2樽ずつ詰め(5銘柄×6地方×2樽=合計60樽)、それから10年間にわたって毎年目隠し試飲をするというものでした。このときのワインは3年の樽熟成の後瓶詰めされましたから、最初の3年間の試飲は樽から、そのあとの7年間は瓶からということになります。実験者たちは、あるシャトーにはある地方の樽材がよく、別のシャトーには別の地方の樽材がいいというような結果を予想していたのですが、実際の結果はすべてのシャトーで樽材の好ましい順位がほぼ同じというものでした。第3位と第4位が入れ替わっているシャトーがひとつだけありましたが、例外はそれだけです。最も好ましい樽材はすべてのシャトーで一致していましたし、最も人気のない樽材もすべてのシャトーで同じでした。

ボルドーは港町で、ヨーロッパのあらゆる地域との交易がずいぶんとありました。ブルゴーニュは内陸の地で、海を使っての交易はありません。当時のブルゴーニュ地方は、フランス産のオーク材を使っていました。一方、当時ボルドーのシャトーは、すべて北のバルト海沿岸産のオーク材を使っていたのです。ボルドーの人たちが慣れ親しんでいたのは、バルト海沿岸産のオーク材のワインでしたから、実験においてもバルト海沿岸産のオーク材を好ましく評価していました。上位3位はすべてバルト海沿岸産のオーク材で、ラトビアのリガ、ドイツとポーランドの間のシュテッチン、ドイツのリューベックという順位でした。4位がアメリカ産のホワイトオーク、学名ケルカス・アルバで、5位がボスニア産オーク、どのシャトーでもしんがりだったのが中央フランス産のオークだったのです。その結果を引きながら友人は言いました。「キルン乾燥ではなく天日で適切に乾燥させ、適切な方法で製材するならば、アメリカ産オークはフランス産オークと同等か、それ以上になりえる」

第一次世界大戦が始まると、ドイツとフランスが戦争状態になったため、ボルドーでもバルト海沿岸産のオーク材を使うのを止め、フランス産オークに切り替えました。戦火でバルト海の森が多く燃えたことも原因ですが、主な理由は交戦による国際関係の悪化です。それで私は、天日乾燥させ、適切に製材したアメリカ産オークを使うことに自信を持ったのです。リッジで造ってきたワインはすべて、(私が着任した)1969年以前のものも含めてですが、天日乾燥させたアメリカ産オークの樽で熟成されています。
(次回に続く)
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