連載コラム Vol.239

ポール・ドレーパー来日セミナー2014 その1

2014年7月31日号

Translated by 立花 峰夫

2014年3月、リッジのCEO兼最高醸造責任者であるポール・ドレーパーが7年ぶりの来日を果たした。以下は、3月26日に東京青山のアカデミー・デュ・ヴァンで行なわれた講演の記録である。(全5回中の第1回)。

<リッジの草創期について>
今日は、まずリッジの草創期についてお話をして、その哲学がどこから生まれ出たかをお伝えしていきたいと思います。私がリッジに醸造責任者として参画したのが1969年のことですから、45〜46年前です。リッジの創設者たちは、19世紀に誕生したモンテベロ・ワイナリーという名の施設を再建し、1940年代に植えられた成木のブドウから、1959年に初めてワインを造りました。

ご存知のように、1920年から1933年までは禁酒法が施行されていた時代で、アルコールを売ること、販売すること、移動させることはすべて禁じられていました。そのため、カリフォルニアにあったほとんどすべてのブドウ畑――19世紀から20世紀初頭に植えられたものですが――が、その時期に打ち捨てられてしまったのです。モンテベロの尾根に、初めてブドウが植えられたのが1885年で、初めてモンテベロのワインが造られたのが1892年でした。しかし、この畑のブドウ樹は、禁酒法の期間にすべてダメになってしまいました。私たちにとって幸運だったのは、この土地を1940年代に所有していた人物が、多くの区画にブドウを植えなおしてくれていたことです。3.5ヘクタールにカベルネ・ソーヴィニョンが、1ヘクタールにシャルドネが植わっていました。創設者たちは、古い建物と畑を59年に買って、少量のワインを造ります。この3人はハイテクの最先端を歩んでいた科学者で、全員が博士号を持ち、スタンフォード大学付属研究所に勤めていたのでした。一人は30年以上ロボット工学をリードした人物ですし、もう一人はコンピューター草創期の歴史を述べる本に、開発者として名前が載っている聡明な人物です。

創設者たちの哲学というのは、その時期にシリコン・ヴァレーで書かれた本のタイトルになっていたもので、「ハイテク/ハイタッチ High Tech / High Touch」というものでした。すなわち、人がヴァーチャルな世界に入っていけばいくほど、実生活においては土地への結びつき、季節を感じること、本物の世界を感じることが必要になるという意味です。創設者にとって、ブドウを育て、小さなワイナリーを営むというのがまさにそれだったのです。誰も、それまでワインを造ったことはありませんでした。

創設者たちは少量のブドウを収穫して59年にワインを造ったのですが、その出来が素晴らしかったので、62年にワイナリー免許を再取得し、商業ベースでの生産を始めたのでした。そのワイン造りはとてもシンプルなもので、まずブドウを手で収穫し、ゆっくり動く破砕・除梗機に通します。そのあと発酵タンクにブドウを投入するのですが、創設者たちは別に本業がありましたから、フランスで「シャポー・シュメルジェ chapeau submerge」と呼ばれるテクニックを用いました(英語のsubmerged cap maceration)。これは、スノコをタンクの中に取り付けて果帽を液体に漬けっぱなしにするというもので、果帽に酢酸菌が繁殖するのを防ぐためにそうするのです。週末があけると創設者たちは本業に戻り、一週間働いたあとでワイナリーに戻ってくると、天然酵母による発酵が始まっていて、もう半分ぐらいは終わっているという具合だったでしょう。さらに一週間たってワイナリーに戻ってくると、辛口のワインが出来上がっているわけです。

発酵が終わったら、ワインを抜いた上で原始的なプレス機で果皮を絞り、樽に入れたフリーランワインにプレスワインもまぜてしまいます。そうしてまた一週間後に戻ってくると、今度はマロラクティック発酵と呼ばれる二度目の発酵が始まっていて、ワインは再び炭酸ガスを放っていたことでしょう。それから二週間たつと、この天然乳酸菌でのマロラクティック発酵も終わっているので、上澄みを移すことで大きな澱を取り除き、そのあとまた同じ樽にワインを戻します。そのあと3年間は、6ヶ月に一度この澱引きを繰り返しました。今私たちがやっているのと比べると、澱引きの頻度は少ないですが、樽熟成の期間は長いです。創設者たちは古樽だけを使い、新樽は使いませんでしたから、樽香が強く付きすぎることはありませんでした。ほんとうに伝統的かつシンプル極まりないワイン造りで、添加物として唯一加えられていたのが、マロラクティック発酵後に添加される必要最小限の亜硫酸です。他には何もしていません。濾過もしなければ清澄もしません。

<リッジ参画前のポール・ドレーパー>
次に私のことを少しお話しておきますと、私はスタンフォード大学の学部生だった頃に、自分は科学がさほど得意ではないのだと気付きました。当初はスタンフォードのあと、カリフォルニア大学デイヴィス校で醸造学の学位をとりたいと考えていたのですが、宗旨替えして哲学を修めることにしたのです。そのほうが私の能力には合っていました。当時は、醸造家になるには化学と醸造学を学んで学位を取らなければいけないと信じられていましたから、私は夢を諦め、別の分野でその後10年間学びを続けたのです。ヨーロッパや南アメリカにも暮らしました。大学を出てから10年ほど経った頃、私は南米のチリにいました。友人とたった3人で地域開発のための非営利組織を運営していたのです。予算の少ないつつましい団体でしたが、チリのためになることは、自分たちのためにもなると信じて活動していました。

今では信じられないかもしれませんが、当時チリでは生産したワインのわずか2%しか輸出していませんでした。ほとんどないも同然の数字です。今ではおそらく70%ぐらいを輸出しているかと思います。私たちがチリのためにやろうとしたのは、高品質なワインを造って国際市場に出すことで、チリからのワイン輸出を促進するというものでした。私たちはこのアイデアについて、すでにワインの輸出を行なっていた、チリで最良のブドウ農園主たちに語って聞かせました。チリ人たちはとても親切そうに、話をじっと聞いてくれ、面白そうだとも言ってはくれたのですが、実際には何もしてくれませんでした。それで、私たちはチリ人の協力なしに自分たちでやることにしたのです。灌漑を行なっていない海岸沿いの丘陵地にあった古いボデガを借りたのですが、10年越しの夢がとうとう叶って、ここで私は初めてワインを造ることになりました。

うまくやる自信はありました。ヨーロッパにいた頃に会った、ラトゥールの醸造長のことが頭にありましたから。45年、49年、53年、59年、61年といった偉大なラトゥールを仕込んだ人物で、私が訪問したときには半ば引退していたのですが、この彼は高校すら卒業していないのです。いかなる醸造学の学位もない男が、そうした偉大なワインを造れたのであれば、私にもワインが造れるはずだと考えました。

それから私は、伝統的なワイン造りについての書物を探します。ワイン造りについて、ほんとうに基本的なことしか私は知りませんでしたから、手引きが必要でした。そうした見つけた本の一冊はカリフォルニアで書かれたもので、もう一冊はボルドーで書かれたものです。カリフォルニアの本は1883年に書かれたもので、著者は1880年代から禁酒法が始まる1920年までの間、カリフォルニアで最も優れた、最も高価なカベルネのひとつを生産していました。著者の畑はラ・クエスタ La Questaという名で、サンタ・クルーズ山脈中にあって、今モンテベロがある場所からさほど遠くありません。彼の書いた本は、まさに私の求めていたもので、第1日目にはこれをやり、2日目にはこれをやりといった具合に、ブドウ畑からワイン造りまでを段階を追って説明してくれていたのです。この著者は、ボルドーで1870年代に書かれた本についても言及していたのですが、そのボルドーの本を書いた人物も、当時カリフォルニアで行なわれていたのと似通った手法について、素晴らしい手際で説明してくれていました。私はフランス語も読めましたから、この本の原書も手にいれて活用したのです。

私は、カリフォルニアとボルドーのテキストの間に立って、チリでワイン造りを始めたのでした。19世紀に用いられていた伝統的なテクニックで、天然酵母、天然乳酸菌を用いました。添加物の類も、当時はまだ発明されていないものが殆どではありましたが、最小限しか使いませんでした。ワインの曙の時代に、黒海の北で造られていたものも、同じ方法を用いていたことでしょう。ワインは基本的にはひとりでに出来るものですが、充分な知識を持つ人間がそばについて、いわゆる「正道」からワインが外れることがないよう、導いてやるのです。ワインが「脱線」してしまわず、健全な状態に保たれるようにするということですね。ワインは何千年もわたってこういう方法で造られてきましたし、19世紀のフランスやカリフォルニアでも、(昔よりずっと知識やテクニックが発達していたとはいえ)同じやり方でワインは生産されていました。

そんなわけで、私は19世紀の書物で学んだ方法をチリでのワイン造りに適用したのです。3年間チリでワインを造り、もっと続けたかったのですが、その頃チリの政治的・経済的状況が急激に悪化したため、アメリカに戻ってきました。帰ってきてから私はチリワインについてのセミナーをしたのですが、その時にリッジの創設者たち――スタンフォード大学の3人の科学者たちが、私に醸造責任者をやってくれと頼んできたのでした。
(次回に続く)
2013年6月以前のコラムはこちらから