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連載コラム Vol.6
Who's Paul Draper ? -ポールの改革
  Written by 立花 峰夫  
 
  ポール・ドレーパーは1969年の収穫期から、醸造家としてリッジに参画した。着任当初からワイン造りの経験や腕、試飲能力で非凡なところを見せ、翌年には赤の醸造責任者となる。彼をリッジに誘ったデイヴ・ベニオンが白ワイン造りを担当し、この二人体制はしばらく続いた。
 ポールが来る前のリッジのワインは、かなりのムラがあった。59、62、64といった年は素晴らしい出来だったが、66年は酢酸敗でダメになっていたという具合である。スタイルの面でも、風味の強烈さと純粋性は備えていたものの、洗練されているとは言えなかった(それでも、当時のカリフォルニアで最良のワイナリーの一つに数えられてはいたが)。
 畑のポテンシャルが素晴らしいことはわかっていたから、問題は設備とワインの造り方にあるとポールは考えた。そこでまず、それまで行き当たりばったりで、統制もとれていなかったセラーの仕事を180度変える。しっかりとした生産計画を立て、明確かつ直接的な指示を従業員に出すようにした。引き続いて、新しい株主から調達した資金で設備の刷新を図る。ホース類やクランプを買い換え、ポンプも低速で優しいものに変更した。当時普及していたセコイアの発酵槽を排し、ステンレスタンクを導入する(タンクのデザインはポール自らが行なった)。新樽も毎年購入するようになり、樽の数が増えてくると、積み重ねた樽を動かさなくても中が洗える、新しいシステムを発明した。
 前任者のデイヴ・ベニオンのワイン造りは、長期マセレーションと極端な非介入主義がその特徴であり、よくも悪くも強烈で大柄なワインを造っていた。着任当初のポールもその基本路線を受け継いでいたが、徐々にパワーよりもフィネスを重視するようになっていく。ワインには洗練味が加わっていった。
 この新しい路線は当初、リッジ内部で必ずしも歓迎されていたわけではない。71年のモンテ・ベロが出来たとき、オーナー達は「こんな軽いワインは初めてだ。なんてことを!」とポールをなじったという。だがこの71年モンテ・ベロは、伝説のパリ対決*でボルドーの一級シャトーと互角に渡り合い、リッジの歴史上最高の一本という評価を市場で得たのである。

注)パリ対決
イギリスのワイン評論家、スティーヴン・シュパリアが、1976年にパリで催した歴史的な比較試飲会。当時まだ無名産地に過ぎなかったカリフォルニアのワインを、最高のボルドーの赤、ブルゴーニュの白と対決させた。結果、赤白ともにカリフォルニアがフランスを押さえて一位となり、以降カリフォルニアは銘醸地としての認知を得るようになる。赤の一位はスタグス・リープ・ワイン・セラーズのSLV73。リッジ・モンテ・ベロ1971は、カリフォルニア勢の中で2位、総合でも4位につけていた。
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 立花 峰夫
 フリーのワインライター/翻訳者。
 2003年ヴィンテージには、リッジ・ヴィンヤーズの研修生として醸造を経験。