Archives
連載コラム Vol.5
Who's Paul Draper ? -ボルドー滞在とカリフォルニアへの帰還
  Written by 立花 峰夫  
 
  チリ時代末期の1968年、ポール・ドレーパーはボルドーの地で秋の収穫期を過ごす。チリで知り合った友人の一人が、招待してくれたのである。フィリップ・ドゥルテなるボルドー出身のフランス人で、彼は大使館の依頼を受けて、チリのワイン産業のコンサルティングを行なっていた。ドゥルテ一家は、ボルドーに複数のシャトーを保有する名門である。
 滞在中、ポールはシャトー・ラトゥールなど五大シャトーを中心に精力的に訪問を重ね、作業のすべてをつぶさに観察した。彼は、ボルドーで最高のワイナリーにあっても、ワイン造りで最も重要なのは科学よりも経験則だということに気付く。かの地の醸造家たちは、小さなリスクを背負うことを問題だとは考えておらず、それらを管理・対処可能な範囲に留める術を知っていた。この時にボルドーで見聞きしたあれこれも、その後のポールのワイン造り、すなわち自然で伝統的な手法の尊重が確立される上で大きなプラスとなった。
 そうこうする間にも、チリでは次第に社会主義陣営の勢力が強まり、ポールと友人のビジネスの存続は日増しに難しくなっていく。どんどんと重くなる税金に耐えかねた彼らは、最終的にビジネスに終止符を打つ決断をした。苦労して造ったワインも、自家消費用として数十ケースのみを瓶詰めしてアメリカに送り、残りはバルクで売り払ってしまう。
 ワイナリーを畳む前にアメリカへと一時帰国したポールは、その間にチリワインをテーマとしたワイン会に招かれた。自らのカベルネを会に持参した彼は、そこで一人の男と出会う。その男もカリフォルニアの山岳地の畑からカベルネのワインを造っており、話し込んでみると醸造の手法にも似通った点が多い。また偶然にも、その男のワイナリーは、ポールが前年世話になったボルドーのドゥルテ家からフランスワインを輸入していたのである。
 この二人の出会いは、単なる似た者同士の意気投合には終わらなかった。男は、ワイナリーの規模拡大のために新しい醸造家を探しており、ポールはカリフォルニアでワイン造りができる場を探していた。この男こそが、リッジの創設者の一人にして初代醸造長のデヴィッド・ベニオン。ポール・ドレーパーは、放浪の果てにようやく終の住処を見つけた。1969年9月のことである。
Archives
 立花 峰夫
 フリーのワインライター/翻訳者。
 2003年ヴィンテージには、リッジ・ヴィンヤーズの研修生として醸造を経験。