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連載コラム Vol.4
Who's Paul Draper ? -チリでのワイン造り
  Written by 立花 峰夫  
 
  若き日のポール・ドレーパーの冒険はまだ続く。ヨーロッパの次は、ヘミングウェイよろしくラテンアメリカへ。チリの地で初めてワイン造りに手を染め、醸造家としてのキャリアをスタートさせることになる。
 ヨーロッパから戻ったポールは、スタンフォード大学でスペイン語を学んだのち、二人の友人とともに国際ボランティア活動を始めた。当時は、アメリカ政府や民間財団が開発途上国の援助に積極的だった時代。ポールらも、ラテンアメリカの人口問題と農業問題に取り組むためのNPOを設立し、まずはペルーに入国した。
  ペルーでしばらく過ごしたのち、政情変化により同国にとどまることが難しくなったため、三人は活動のフィールドをチリに移す。そこで始めたのがワイン造りの事業である。これはポールの発案であり、高品質のワインを造って北米に輸出すれば、チリにとって貴重な外貨の獲得が可能になるという目論見であった。
  チリのワイン造りの始まりはカリフォルニアより古く16世紀、カベルネなどボルドー品種も、当時はカリフォルニアより多く栽培されていた。ポールはチリのカベルネに可能性を見いだし、この品種に取り組み始める。海岸に近い山裾の畑を選んだのだが、チリでは高級ワイン用の葡萄畑は、当時も今も川沿いの平地に集中している。つまり、ナパ・ヴァレーに対するサンタ・クルーズ山脈の関係と、これはちょうど同じなのである。
 打ち捨てられていたワイナリーを人から借りた三人は、古めかしい醸造器具を自分たちで修理して使い始めた。当然発酵は天然酵母で、ピジャージュは人力で行なう。当時のチリにはオークの小樽が存在していなかったから、ポール達は樽屋に特注で造らせた。手に入る瓶の品質に満足できなかったので、瓶の鋳型を自分たちで造った。コルク栓に至っては、手で一つ一つ型抜きしていたという。
  この劣悪とも言える環境で造られたワインは、しかし素晴らしかった。畑の立地や製法が似ているせいか、リッジのモンテ・ベロにそっくりなスタイルだったらしい。海岸沿いの山岳地の畑が持つポテンシャルと、自然なワイン造りの優位性について、ポールは次第に確信を深めていく。結果的に彼らは、67年のファースト・ヴィンテージの瓶詰前にチリを後にすることになる(またもや原因は政情の変化である)。だが、この時の経験は、舞台をリッジに変えて引き継がれることになった。
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 立花 峰夫
 フリーのワインライター/翻訳者。
 2003年ヴィンテージには、リッジ・ヴィンヤーズの研修生として醸造を経験。