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連載コラム Vol.111
2008 ポール・ドレーパー40年目のヴィンテージ その4
  Written by 立花 峰夫  
 
 このシリーズも今日で最終回。学生時代からのポールの親友で、若き日にはチリでともにワイン造りを行なったフリッツ・メイタグによる長いコメントである。メイタグは、サンフランシスコにある地ビール会社、アンカー・ブリューイング・カンパニーのオーナーだが、ナパのヨーク・クリークにブドウ畑を所有し、長年リッジにブドウを供給している。

「醸造家としてのポールを最初に見たのは、1966年秋のことだ。この時彼は、ハウエル・マウンテンにあった元々のスーヴェラン・ワイナリーで、リー・スチュワートの手伝いをしていた。リーは私たちのヒーローだった。驚嘆すべきジンファンデル、プティ・シラーを造っていただけでなく、明らかにマーケティングに関する天才だったのだ。「ゆっくり売っていた」というのは控えめな表現で、実際リーのワインはいつも売り切れだった。他人が自分のワインが好きかどうかなど、気にしている素振りもない様子で、実際彼は困っていなかった。ポールは一生懸命働いていた。ワインをポンプでくみ出しながら、リーからワイン造りの方法をポンプでくみ出すかのように吸収していた。カリフォルニアで秋にワインを仕込み、次の春にはチリでワイン造りに携わることは可能である。「収穫作業が年に一回なんて少なすぎる。二回やろうじゃないか」と、ポールはつぶやき、実際その通りにした。

 そして、1968年の収穫シーズンに、ポールはワレン・ウィニアルスキーと知り合う。当時のウィニアルスキーは、ハウエル・マウンテンに小さなジンファンデルの畑と家を借りていた。私たちは、「少しばかりの」ブドウを分けてもらって、自分たちのガレージで自家用ワインを造らせてもらえないかと頼んでみた。ワレンは私たちの提示した値段を呑み、遠くにある土地を「あそこだ」と指差してくれた。翌日、私たちはそこでブドウを摘む。えらく軽い果実だと思ったのだが、その夕方にブドウを潰してみたところ、たった18〜19度の糖度しかなかった。それで翌朝、ワレンのところに行って、どういうことかと問いただしたのである。「おやおや、それは二番成りの実だったんだな。場所を間違ったんだ」というのが、ワレンの返事だった。そこで私たちは、彼の許可を得て別の区画に行き、過熟なブドウをすべて摘んだ。そして、先に摘んだ未熟なブドウと、後で摘んだ過熟なものを混ぜ合わせてワインにした。私の手元には、今でもその時のワインが数本残っている。なんというタンニン、なんという酸のワインであることか!

 60年代の後半、ポールがチリで行なっていた冒険的ワイン造りについては、一日中話をすることができるだろう。ただ、ポールは当時から、チリワインが持つ大いなる潜在力を正統に評価していた、と言えば十分かもしれない。三十年は時代を先取りしていたが、チリの保守的なワイナリー・オーナーたちを相手にするには二十歳ほど若すぎた。ただそれでも、斜面の畑を備えた人里離れたワイナリーで、美しいカベルネをいくらかは造った。身を粉にして働き、目的を果たして見せたのだ。言うならば、ポールは逆境の中で自分の学校をつくり、そこを優等で卒業したのである。

 カリフォルニアに戻ったポールはリッジに職の口を見つけたが、それはリッジのワインのことを知っていたからである。モンテベロ 1959を飲んだことがあり、それが途方もないワインであると、偉大なカベルネであると認めていたのだ。ポールほど、ワイン造りの経験が乏しい醸造家を雇い入れた高級ワイナリーなど、未だリッジのほかにないのではなかろうか、そんなふうに私は想像している。また、ポールほど短い期間に多くの経験をした醸造家は、ほかにいないのではないかとも思う」

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 立花 峰夫
 フリーのワインライター/翻訳者。
 2003年ヴィンテージには、リッジ・ヴィンヤーズの研修生
  として醸造を経験。