1958年に大学を卒業したポール・ドレーパーは、リッジにワインメーカーとして迎えられる1969年までの足掛け11年間、外国での生活が主となった。イタリアに3年、フランスで1年、そしてチリで3年間を過ごす。この修行期間中に、哲学科出身の若者は自然派の天才醸造家へと変身をとげる。
まずはイタリア。陸軍関連情報機関の民間人スタッフとして、ポールはヴェニスに赴任した。当時は東西冷戦が本格化してきた時期であり、北イタリアには旧ユーゴとの国境があった。余談だが、なぜだかワイン業界の偉人には、諜報機関と関係のあった者が少なくない(フランク・スクーンメーカー→CIAの前身OSS出身、アレクシス・リシーヌ→陸軍情報部出身など)。何かしら、能力的に通じるものがあるのかもしれない。
ヴェニス時代のポールは民間人に扮し、「とにかくイタリア人になりきろう」としたという。築500年(!)のメイド付き大邸宅に住み、オーダーメイドのイタリア製スーツに身を包む。スキー、美しい女性とのアバンチュール。まさに享楽的な「甘い生活」。だが、忘れてはいけないのが、毎食必ず楽しむようになったワインである。近隣には多くのワイン生産者がいたから、自然に造り手の友人も増え、ポールはワインの製造工程にも興味を抱くようになった。
イタリアでの任務を終え陸軍を離れたポールは、すぐにパリへと移住する。1年間、ソルボンヌ大学でフランス語を学びながら、アメリカ大使館で働いた。ここフランスでも、ポールは素晴らしいワインと食に親しむ生活を送り、その文化を十分に満喫することになる。
ポールにインタヴューしていると、時折ヨーロッパ人よりもヨーロッパ人らしいと感じる瞬間がある。彼は好んで「ワインが欧州文化に持つ意義」といったテーマについて語るのだが、ヨーロッパで生まれ育った醸造家だと、逆にワインが当たり前すぎて、そこまで考えていないことが多い。異なる文化圏出身の外国人として欧州に滞在し、意識的にその文化・生活に同化した-この経験こそが、彼に伝統的ワイン造りの鳥瞰図を与えたのではないだろうかと思う。
ソルボンヌでの留学終了に際し、ポールの卓越した語学能力を高く買った米国大使館は、次にスペイン語を学ぶよう勧め、その費用を負担すると提案する。その誘いに乗ったポールは、スペイン語の学習のために再びスタンフォード大学に戻ってきた。
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